戦前から戦後にかけて沖縄から京都へと移り住んできた京都向日町の玉城一族。 その中心となっていた母屋が、今月末でその姿を消すことになった。 母屋を管理していた親戚たちがみんな高齢となり、維持していくことが難しくなったためだ。
母屋のおじいさんたちが中心となって立ち上げ、父たちが力を合わせて働いてきた光徳大理石。 嘗ては一文橋のあたり一帯が工場の敷地だった。 この工場で加工され磨かれた大理石は、ホテルなどの壁面や床などを飾り、様々な建築材料として使われてきた。
事務所の二階の大きな広間には、週末にもなると多くの親戚たちが集まり歌と三線が奏でられ、琉球舞踊が踊られ、郷土芸能の研鑽の場ともなっていた。
おじいさんたちの奏でる歌三線、そして祖母たちが踊った踊りの数々、子供の頃の記憶が懐かしさと共に心いっぱいによみがえる。 時の流れと共にそんな工場も今は姿をを消し、おじいさんの住んでいた母屋と茶室だけが工場の面影と共に残っていた。
親戚たちが集い、おじいさんたちを囲んできた母屋、そして様々な人たちを招き入れ、もてなしてきた茶室もその姿を消す。
そんな母屋で使われてきた三線一丁と工工四を、今、母屋を管理しているおばさんから譲り受けた。 「母屋は、もうなくなってしまうけれども、私らの心は受け継いで行ってほしい。」そのように言われながら譲り受けた三線と工工四。
なんとも言えない寂しさと、その心を受け継いで行くのだという思いをかみしめながら、その三線を受け取った。
おじいさんたちは生前、私を沖縄に行かそうと考えてくれていたとのこと。 私を国立劇場の地謡にさせようと考えていたとか。 あまりにも大きな話に驚いてしまったが、実際に劇場まで行って、相談までしていたとのこと。 そのときにもらったという名刺も頂いて、ただただ驚くばかりだった。
おじいさんはその後しばらくして亡くなってしまったが、このようにして、多くの人たちに支えられながら三線の道を歩めているのだということにとても感謝の思いでいっぱいになった。
母屋がなくなってしまうことは寂しいことだが、この譲り受けた三線と共に、その心を大切に受け継ぎ、次の世代へと伝えて行ければと思う。